2008年12月8日月曜日

15.嫌老思想あれやこれ

先週末は、若くして亡くなった天才たちを取り上げ、礼賛(らいさん)しました。今日は年寄のこきおろしの番です。
<アリストテレス>
老醜をさらすとか、生き恥という言葉があります。アリストテレスもこんなことを言っています。
「恥は若者にとって名誉であり、老人にとって屈辱である」
ニコマコス倫理学の中の、彼の考えは以下の通りです。
「肉体と魂は結合している。老年の幸福とは、肉体が健康であることである。したがって、肉体の老化は人格の退行を意味する。老人はケチでエゴイストで、利害を超えた友情を知らず、倦怠のため愛情も失せており、性格が気難しい」
なんともすごいですね。アリストテレスは、嫌老思想の代表格です。
<孔子>
「長じて述べらるることなく、老いて死せざる、是を賊と為す」
これ、孔子の言葉です。歳をとっても評価されることなく、なかなか死なない。これはよくないことだといっているのです。
儒教は敬老観念の教えといわれるが、老人自身の厳しい自己抑制が前提となっているのです。死後のことなど分からないとする孔子にとって、老年期とは死ぬ前の大事な時期であり、どう生きたかが問われる時期でもあったのです。私には、尊敬される老人以外は、早く死になさいといっているように聞こえます。
<ラスコーリニコフ>
ドストエフスキーの、「罪と罰」の主人公です。
「有為な青年のためには、無益な老人の生命と財産を奪っても構わない」という命題を追いながら、主人公の心の葛藤を描いた小説です。人間を社会的存在価値だけで規定してしまうと、老人殺しを否定できなくなります。アリストテレスや孔子は、こちらの派に属しているようですね。何故老人殺しをしてはいけないのか、何故老人を大事にしなければならないのかということについては、ドストエフスキーは直接触れていません。主人公が自首し、シベリヤ送りになるまでの過程で、読者にその課題を考えさせようとしているようです。結論から言えば、ドストエフスキーは老人擁護派になるかもしれません。しかし、老人の存在価値を命題にしたこと自体、その根深さを認識していたことになります。
<西鶴>
「人間五十年の穴(きはま)り それさえ我には余りたるに ましてや浮世の月見 過ごしにけり 末二年」
西鶴が、52歳で亡くなった時の句です。人間は50年で死ぬのがちょうどいい。それなのに何としたことか、自分は2年も余計に生きてしまった。まことに、いさぎいい死に方だと思います。
<兼好法師>
「住み果てぬ世に、醜き姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」
徒然草の一節です。寿命の短かった時代ですから、四十足らずで死ぬのがいい、見苦しくない生き方をせよと兼好法師は言っているのです。老人のことを醜き姿といっているし、長生きすると恥が多いといっていますから、やはり嫌老思想といえるでしょう。
そのご本人は、当時としては異例の長生きといえる、七十歳近くまで生きたそうです。言行不一致ですね。
<銀嶺の果て>
村上春樹の小説の題名です。
年寄が生きていること自体が罪として、国が老人処刑制度を作ります。一つの地域で老人同士が殺しあって、残った一人だけが生き残れるという制度を国が作ったという奇想天外な内容です。
一人の老社長が、国の係官に食ってかかります。「わしは金をたくさん稼いでいるし、誰にも迷惑をかけていない。だから自分は免除して欲しい!」
ところが係官はこう言うのです。「例外はありません。老人が老人であることそのものが罪なのです」
まことに厳しい内容です。老人問題のタブーを打ち破ったというよりも、老人問題の核心に迫った村上春樹ワールドといっていいでしょう。
以上、老人問題の本質とは何かを、歴史上の人物などに学んでみました。無条件の長生き礼賛主義者は、知らないので取り上げようがありません。人間は、長生きするのがいい、長生きはめでたいとは必ずしもいえないようです。そのことが、老人問題・長寿社会を考える上で、非常に重要なポイントだと私は考えます。

0 件のコメント: