2009年8月14日金曜日

今年の阪神が弱い理由

久しぶりに投稿します。
というのは昨夜阪神ー中日戦をテレビで見ていて、今年の阪神が弱い理由がようやく分かったからです。結論から言います。昨日圧倒的に試合を有利に進めていた阪神が、最終的にボロ負けした原因はすべて真弓監督にあります。6回表まで阪神の久保投手は、今年一番といっていいほど好投していました。それに引き換え中日の朝倉投手は、今年の前半戦の活躍から考えて信じられないほどのフラフラ投球でした。そして6回裏。コントロールが定まらない朝倉投手は、なんと3個も四球を与えてしまったのです。二死満塁。ここで得点すれば、試合は決まります。この試合の勝負どころです。ところが真弓監督は勝負に出なかったのです。勝負事で勝負時に勝負しなかったら、勝てるわけがありません。あそこは狩野捕手に替えて、代打の切り札桧山を出すのが勝負師というものです。その理由は、勝負どころでかさにかかった攻撃で相手を徹底的にたたくのが勝負というものだからです。勝負ですから勝ちも負けもあるでしょう。それは結果ですから、仕方ありません。しかし勝負どころで勝負をしない大将の下で、兵は必死に戦うでしょうか。
若い狩野捕手を育てるためという考えもあるでしょう。それでは聞きます。一人の選手の将来のためにチームが破れ、士気が低下し、たくさんのファンを落胆させてもいいのでしょうか。プロ野球は、所詮娯楽です。ファンは選手を育てるのを見るために、お金を払って見に来ているのではないのです。あそこで勝負をして、スカッと試合を決める場面を味わうためにきているのです。桧山に替えたら、中日が左投手を持ってくるかもしれません。でも、そんなことはどうでもいいことなのです。「大将が勝負に出たな」、とベンチ全員が感じることが大事なのです。ベンチの選手全員が、ピリッと緊張することが大事なのです。そこから一体感が生まれ、ムードがよくなるのです。真弓監督はそこのところが分かっていません。岡田前監督は、そこのところをよくわきまえていました。そこが去年と今年の大きな違いです。今年の阪神の試合振りを見ていると(自慢じゃありませんが、ほとんど全試合を見ています)、何か迫力に欠けたものが感じられていました。ビッグイニングがほとんどなかったのもその一つです。また6回以降も先発投手を続投させて失点する場面も、数多く見ました。ビッグイニングがないのは、ベンチがお祭りモードになっていないからだと思います。作戦が、慎重すぎるのです。選手交代も後手後手に回っているように感じます。2割そこそこの新井を先発からはずすとか、平野に便利屋をやめさせて2塁に固定させ他の選手の競争心をあおるなどの発想がありません。すべてに慎重で、優等生的なのです。試合後の真弓監督のインタビューでも、まだこんなことをいっていました。「久保は7回先頭打者にホームランを打たれてから調子がおかしくなった。それまでは非常によかったのに」 (新聞ネタです。直接聞いたわけではありません)
負け試合を久保投手の所為にしています。分かっていません。敗因は自分にあったという事が。プロですから、選手の力の差はそう極端に開いておりません。6位の横浜が1位の巨人に勝つこともあります。ドラフト制が導入されてからは、V9などということは起こりえません。各チームの実力差は、それほど開いてはいないのです。紙一重といってもいいでしょう。それではなぜこれほどのゲーム差が生じるのでしょうか。私は大将の責任だと思います。戦場で兵を育てるのではなく、一つ一つの戦闘に指揮官が先頭にたって戦う姿勢を示すことです。兵は自然に育っていきます。そういえば、真弓監督はベンチで笑いすぎです。ムードを暗くさせないよう、無理に笑顔を作っているのでしょう。しかし笑っていられるような試合は、今年は2試合くらいしかありませんでした。笑っている本人もうれしくて笑っているのではなく、作り笑いですから楽しいはずがありません。麻生総理の作り笑いと同じです。
ともかく選手たちが求めているのは、監督の毅然とした決断力です。勝負どころで勝負をかける迫力ある勇猛心です。監督にこの部分が欠如しているから、金本や赤星に負担がかかり彼ら自身の悪い結果
につながっているのです。監督が勝負というものの本質を理解できないのであれば、来年も全く期待はできません。どんなにいい選手を入れても、勝てるわけがありません。阪神フロントは、ここのところに早く気づくべきです。そうしないと来年もBクラス入りが決定的です。(実は昨夜中日7回攻撃終了後に腹が立ってお風呂に入り、その後の試合は見ておりません)        

2009年2月26日木曜日

59.年寄の責任の取り方

ともかく高齢化社会が、若者たちを苦しめていることは明らかです。だから政治は、年寄にその責任を取らせるべきです。責任の取らせ方は三つ、まず、これ以上年寄向けの税金投入を拒否させることです。次に早急に、生前贈与を行わせることです。最後に延命治療を拒否して、尊厳死を迎えられるよう準備をさせておくことです。
長生きができたことに感謝し、国からお金はもらわず、自分の金は早く相続する。じたばたせずに適当なところで、この世とおさらばするという空気にするのです。そうすれば、平均寿命は下がります。平均寿命が下がるということは、悪いことではなくてよいことなのです。日本の景気はよくなり、若者たちは生きがいを見つけることができるようになります。
年をとってからでも、国に貢献できるのです。虎は死んで皮を残すといいます。年寄も死ぬ前に資産を相続させ、早めに死んで年金や医療費を受け取らぬことです。虎の皮に相当する価値ある死に方です。これこそ最も喜ばれる尊厳死であり、充足した人生なのです。
とりあえずこのテーマに関しては、今日で筆をおくことにします。何か書きたいことがあれば、その都度投稿したいと思います。

2009年2月25日水曜日

58.隠居のすすめ

昨日、隠居という言葉が出てきました。
そう、昔は隠居という言葉があったのです。今はほとんど死語となりましたが、隠居とは隠れ住むことです。昔の年寄は、そのことをわきまえていたのです。
ところが質の低下した今の年寄は、隠居しません。しかし、いつまでも年寄がでしゃばっていては、若者に出番がありません。一流の会社であれば、年をとった社長から世代交代するルールが出来上がっています。しかし国民一人一人には、世代交代するルールやシステムがありません。本人がでしゃばっていたければ、年寄という権威と金があるのですから、いつまでもそうしていられるわけです。これでは若い人に、チャンスは廻ってきません。
社会の活力の源は、スポーツ界を見れば分かるように、若い力が年寄を押しのけていくことです。それが自然の理というものです。だから当たり前の状態にするために、若者は立ち上がるべきです。どのようにして立ち上がるか? それは年寄が隠居する気持ちになるような、政治の仕組みを作り上げることです。お金の面でいえば、年寄から若者に流れを政治的に変えることです。心理面で言えば、老醜のPRキャンペーンや老害問題を徹底的に取り上げることです。お金や権力を、年寄から若者へシフトする政治を目指すのです。政治を変えるには、政党を作ることです。皆で立ち上がって、政党を作りましょう。政党の名は、若者党です。(明日につづく)

2009年2月24日火曜日

57.逆年金

高齢化社会は、年寄よりも若者により大きな影響を与えています。のっぺりと間延びした生命を前にした若者たち。自分の前に立ちはだかる長い人生。負け組の若者たちにとって、人生とは辛く厳しいものでしかありません。そこから逃れる方法はないと知っているから、計画的にキレて見たりするのです。怒りや不満をぶつける相手が不明なまま、誰でもいいからナイフを切りつけるのです。
これは冗談半分ですが、逆年金というのはいかがでしょうか。年金をたくさんもらって余っている年寄や大金持ちの年寄から原資を頂戴して、ワーキングプアの若者たちの年金助成に回すのです。公的年金支給停止制度を、一歩進めるのです。少しは格差の解消になるのではないでしょうか。また、キレる若者も少しは減るのではないでしょうか。
もう一つ、選挙権の放棄というのはどうでしょう。75歳以上は選挙権がなくなるというと、物議をかもしますから、選挙権を返上できる、つまり放棄しても構わないようにするのです。謙譲の美徳のある年寄は、自分は隠居して世の中のことは若者たちに任せようと考えるでしょう。(明日につづく)

2009年2月20日金曜日

56.内戦の予備軍兵士

ワーキングプアが増えています。今、満足に飯が食えない上、将来の展望は何もない若者たちが増えているのです。このような若者たちの中には、キレる人間が混じっています。これが内戦の予備軍兵士です。
脳の成長期にテレビゲーム漬けになると、反射神経やカッとなりやすい感情的反応の神経ばかりが発達してしまいます。逆に、人間として大事な自制心・判断力・創造性が欠如します。いわゆるゲーム脳です。彼らは何らかの拍子に、突然キレます。理由もなければ目的もなく、やけくそになって暴れまわるのです。当然のことながら、暴力や殺人の直接の責任は彼らにあります。だから、彼らを取り締まるしかないのでしょうか。
私が言いたいのは、このまま何もせずに日本は、団塊の世代を加えた超長寿社会を迎えていいのかということです。間延びした生命の中で、広がる若者と年寄の格差。派遣社員と正社員の格差は、法改正である程度うずめることが可能だと思います。しかし、若者と年寄の差は開く一方です。しかも皆、この格差こそが最大の問題点であることに気づいていません。
現在の日本の国の究極の課題は、この若者と年寄の格差是正です。特に政治家の方には、早くこのことに気づいてもらいたいと思います。(来週につづく)

2009年2月18日水曜日

55.派遣社員

以前、派遣社員の心根に触れた経験があります。専門職の女性派遣社員4人の机と、2メートルほど離れた場所に、部署は違いましたが1年間ほど座っていたことがあります。彼女たちは優秀で、学歴も正社員より上のようでした。男性課長よりも優秀なのは、誰が見てもすぐに分かりました。仕事も手際よく英語がしゃべれるので、外国人から電話がかかってきてもうまくこなしていました。正社員は、外国人からの電話には逃げ回っていました。そんな彼女たちですから、正社員に対する不平等感を持っています。給料・休暇・契約期間など、正社員とは雲泥の差です。一番のコンプレックスは、契約期間がきたらよほどのことがないかぎり、クビになってしまうことです。その4人の派遣社員が座っている付近は、独特の雰囲気がありました。拗ねているというか、諦めというか、そんな態度や会話が鼻につくのです。ちょっとした点数の差か、何らかの偶然で正社員になれず、やむなく派遣会社に登録している無念さやあきらめの混ざった感じが伝わってきます。作業中心の製造業の派遣社員とは違い、サービス業においてはこのような微妙な空気が流れているのです。多くの会社の中に今、これと同じような空間がたくさんできていると思うのです。
彼女たちはまだましです。少なくとも2年間の契約期間は、致命的なミスがないかぎり仕事にありつけるからです。悲惨なのが日雇い派遣です。明日仕事があるのかないのか、あればどんな仕事で場所はどこなのか、連絡があるまで分からないのです。まじめな人ほど、恐怖の生活を送ることになります。仕事が少ない時は、食事の回数を減らすそうです。まさに江戸時代の飢饉のときの、水呑百姓のようではありませんか。(明後日につづく)

2009年2月17日火曜日

54.間延びした人生

人生は若者から見れば非常に長い未来ですが、年寄から見れば非常に短い過去です。ほとんどの年寄は長生きしても、長生きしたとは思っていません。西鶴や芭蕉のように、「50年も生きたのだから、もうこれで充分だ」と考える人は少ないのです。短命の時代では、西鶴や芭蕉のように人生五十年と覚悟して生きました。しかし今は、医療・食糧・衛生など飛躍的によくなっています。過去類例を見ない長寿社会を迎えたのです。団塊の世代が60歳代となり、やがて年寄の仲間入りをします。ますます年寄の数が増えるのです。植島教授ではありませんが、人生がのっぺりと間延びしたものに変わっています。間延びした生命は、年寄だけのことではありません。若者にとっても、気の遠くなるような間延びした長い人生が待ち受けているのです。年寄はふと気づいたら、年をとっていたと感じます。しかし若者は反対です。死の告知の逆で、これからの長い生命を告知されているようなものなのです。
間延びとは、時の価値が下がることを意味します。若者の生きている時間の価値が、下がっているのです。特にいわゆる負け組の若者たちにとって、人生はどれほど辛く苦しいものでしょうか。現在の辛くて苦しい人生の延長線上には、明るいものが何も見えてこないのです。あと半世紀以上も生きなければならないというのに、お金や生活の不安しか見えてこないのです。結婚するなどといったことは、不安で考えることもできません。(明日につづく)