2008年12月31日水曜日

31.高齢化社会の特徴

高齢化社会の特徴とは、①医療費・年金の膨張、②高齢者の個人資産の増大。この二つに尽きます。①医療費や年金の膨張とは、税金が年寄にたくさん使われるということを意味します。年寄を大事にすればするほど、税金投入額が増えるのです。
②高齢者の個人資産の増大とは、後日触れたいと思いますが、個人資産が年寄に集中しているという事実です。
高齢化社会の特徴とは、一言でいうと、「お金持ちの年寄に、もっとお金をかける」社会です。金持ちに国の税金をたくさん使い、貧乏人には使わないという社会のことです。
これでは、若者に不平等感が生じるのは当然です。昔(江戸時代以前?)は、年金などありませんでした。庶民が利用できる金融機関も、質屋以外なかったと思います(頼母子講があったとは思いますが、金融機関とは言いがたいようで・・・) 要するに、年金も貯金もなかったのです。高禄武士以外、将来の保証など何一つない環境だったのです。みんな生きていくのが精一杯で、年寄にお金をかける余裕などなかったのです。
それがいまや、年寄にお金をかけるのが当たり前ということになってしまっています。年寄を大事にするのは当然だから、年寄にお金をかけるのは当然だということでしょう。敬老思想という点では、江戸時代も今もさほど変わってないように思われます。しかし、江戸時代のようにお金の余裕がない時代から、現代のように税金の余裕が出てきた時代にかわると、極端に年寄にお金をかけるようになってしまいました。高齢者福祉などに、お金をかけるのが当たり前という感覚になっています。敬老ということと、お金をかけるということを混同しているのです。年寄にお金が行き過ぎて、若者に行き渡らないのならば、年寄に我慢をしてもらうという発想が欠如しているのです。ここのところを、年寄自身も含めて、みんなで考えてもらいたいのです。もう一度当たり前と思っていることを、考え直してもらいたいのです。(明日は元旦につき休み、明後日、2日につづく)

2008年12月30日火曜日

30.宗教と死

エホバの王国云々とかいう宗教団体があります。数年前に、死にかけている子供に対する輸血を、両親が拒否した事件がありました。結局、子供は輸血を受けられず死にました。
このケースは、子供のことなので当然延命治療するべきだと思いました。今までいってきた高齢者のケースと、全く違うと考えるからです。
そこで、エホバの王国の・・・・・・・を調べてみました。
創世記に出てくる話があります。ノアの大洪水の後に、エホバ神はノアとその家族にこう命じます。「生きている動く生き物は、全くあなた方のための食物としてよい。緑の草木の場合のように、私はそれを全てあなた方に与える。ただしその魂、すなわちその血を伴う肉は食べてはならない」
動物の肉を食べるのは構わないが、血は魂や命を表しており、地面に注いで神に返すという考え方のようです。輸血も血を体内に摂取する、すなわち、「血を食べる」と同じ行為にあたるというわけです。だから、輸血を拒否したというのです。
宗教に対して文句をいうつもりはありませんが、血を摂取せずに食事をするというのは難しいのではないでしょうか。たとえば、マグロの刺身や鳥のもも肉などには、血が少しついている場合があります。カレーや鳥スープには、血が溶け込んでいるはずです。血を食べてはならないとする教えに対して、厳格にそれを守りきれるのでしょうか。どう考えても疑問符がつくのです。
わき道にそれましたが、宗教的信条によって死を選ばざるを得ないというのは、納得しにくい話です。輸血という治療法が開発されるずっと前の教えだから、こういう問題が起こるのでしょう。こんなところでも、医学と宗教は対立しているわけです。
ともかく、無駄な延命治療はやめようというのが私の主張ですが、必要な延命治療は否定しておりません。逆に必要なものであれば、今まで以上にもっと研究を続けてもらいたいものだと思っております。医学や科学の進歩を、真っ向から否定しているわけではないのです。(明日につづく)

2008年12月29日月曜日

29.医学対宗教

仏教では生老病死といって人は老い、病にかかり、死んでいく運命にあります。昔の人は、家で生まれて家で死にました。今の人は、病院で生まれて病院で死にます。生と死が家の中になく、身近なものではなくなったのです。現代人は、この原点を忘れています。もともと人間とは、病院で生まれて、そこで死んでいくという存在ではなかったということです。
どんな未熟児も集中治療室の中で生かせてもらえる、年をとって病気になっても病院や介護施設で長生きさせてもらえるのが、当たり前と思っているのではないでしょうか。確かに医学の進歩によって、ガンやエイズが治る時代は来るでしょう。あらゆる病気に対して、医学はこれからも対決し挑戦していくことでしょう。だからといって、医学を100%信用してもいいものでしょうか。医学に100%頼り切っていいのでしょうか。
医学と宗教は対立関係にあります。医学が発達すれば、人々は宗教を捨てて医学に走ります。医学で治せなければ、宗教に走ります。人間とは勝手なものです。
しかし、医学が永遠に治せない病があります。それは、病の終わりに来る死という名の病です。死は治すことはできません。死だけは避けられません。死に対して医学は無力です。
だから、無駄な延命治療を続けるよりも、死と向かい合う心の持ち方が重要だといいたいのです。だから、最後には宗教あるいは宗教心が必要になると考えています。

2008年12月26日金曜日

28.尊厳死

島根県隠岐の離島で、終末期を迎えた高齢者と生活をともにしている女の人がいました。NPO法人、「なごみの里」代表柴田久美子さんです。彼女の著書、「『ありがとう』は祈りの言葉」を読みました。その中からの抜粋です。
95歳女性・・・・・・・「よく『死にて~』って嘆く年寄がいるけど、あれは愚痴だよな。死にたいなんていったら、世話してもらっている家族に申し訳ない。言ってはならない言葉だ。昔は、この島でもたくさんの年寄が首をくくったもんだ。今は時代がよくなって、皆、年寄を大事にしてくれる。わしは、こうして息をしていること、今、生かされていることに感謝しているよ」 (95歳になっても、しっかりと自分の置かれた立場を把握されています。こういうお年寄なら、長生き大いに結構と思うのです)
92歳女性(末期ガン患者)に対する著者の言葉・・・・・・・「何度となく激痛に襲われた。しかし、『人様に迷惑をかけるから』と、島の療養所に連絡を入れようとはしなかった。一人で苦しみに耐えながら、夜の明けるのをただひたすら待つような人だった。(中略)死を宣告され、痛みをこらえながら、たった一人で暮らす千代さん。人はこれほどまでに凛として生きられるものなのか。私はただただ驚き、感動するばかりであった」 (人に迷惑をかけられないといって、夜中に医者を呼ばないひと。すばらしい年寄です)
著者の言葉・・・・・・・「インドのカルカッタにあるマザー・テレサの施設、『死を待つ人の家(カリガート)』 そこはスラム街の路上で死にかけている人々が、人間らしい最期を迎えるための施設。多くの人は死に際に、『サンキュー』といって旅立っていくという。人生の最後の最後に、『ありがとう』といってこの世を去っていく。それこそが、私が心の底から求めてやまない看取りであり、私が求めていた、『人間らしい死』なのである。たとえ人生の99%が不幸であったとしても、最期の時が幸せなら、その人の人生は美しいものに変わるであろう」
この著者は人間が、自然にそして尊厳を持って死に臨んでいる姿を、この本の中で数多く取り上げています。登場するお年寄たちは、皆、腹が座っています。じたばた延命治療など受けずに、時が来るのを静かに待っています。そして最期は、家族らに看取られて亡くなっていくのです。「東京物語」の東山千栄子のような死に方です。私は、これが理想的な死に方だと思います。「東京物語」は戦後まもなくの時代で、東山千栄子は67歳で亡くなったことに設定されています。現在は、平均寿命が大幅に伸びました。医学の発達も、大いに関係があるでしょう。しかし、死に際については何歳であろうと同じことです。人間としての尊厳を保ちながら、あの世に旅立ちたいものです。(月曜日につづく)

2008年12月25日木曜日

27.死に花

近年、葬儀が終わって出棺する直前に、遺族や故人と親しかった人たちが棺の中の故人に、折った花を捧げるということが行われています。まさか、死に花を咲かせているのではないと思います。いつごろから、こんな習慣ができたのでしょうか。どうやら葬儀社が考え出した、演出のような気がします。
ところが最近では、棺の中の故人の死に顔をケータイで撮る人が出てきているようです。新聞に載っていました。撮影する人は、何を考えているのでしょう。きっと何も考えていないのだと思います。結婚式のスナップと同じように気楽な気持ちで、記念にと思って撮っているのかもしれません。これでは、死に光が台無しです。せっかくの死に花も、咲くどころか枯れてしまいそうです。
ところが今、いいアイデアが浮かびました。前に書きましたが、延命治療を続けると顔がむくんだり、苦しい相になったりするということでした。ということはいっそのこと、ケータイによるお別れスナップを習慣づければどうでしょうか。この世の最後のお別れ写真の顔がむくんでいたり、苦しんでいたのではみっともなくて悔いが残ります。だから、延命治療を望む人が減ると思うのです。もちろん冗談ですが。(明日につづく)

2008年12月24日水曜日

26.リビングウィル

終末期に医者がいろいろな治療法を、老人患者や家族に説明して、リビングウィル(延命の意志)を確認するということが行われています。これは患者本人の意識がハッキリしている間に、なるべく早くやるべきだと思います。そして患者は、無駄な延命治療を拒否するべきです。家族の疲労や医療費負担、それに国の税の無駄遣いや医師の酷使などを考えることができる状態なら、ここは遠慮するのが日本人の死生観ではないでしょうか。意識がハッキリしている間に無駄な延命治療を、謙虚な気持ちでお断りしておくのです。寿命がくれば、じたばたせずに自然に終末を迎える覚悟を持つことです。
「このままでは皆に迷惑をかける。ここまで長生きしたのだから、家族でも心底から悲しむ人はいない。かえって長生きしたと喜んでくれると思う。自分はこの世のお荷物になったのだから、寿命がきたら、無駄な延命治療はいらない」
人間はこのような状況が来ることを、予め覚悟しておくことが大切です。そういった感性が貴重です。感性が鈍ってきたと感じ出したら、リビングウィルの内容をハッキリと決めるべきです。
緩和医療というのがあります。死を告知されたガン患者に対して、痛みや苦しみを緩和させる治療です。これには、患者も医者も異存はありません。死を告知されたのだから、あとは苦しまないようにするしかないと思います。ところが、心臓や肺の不治の病の場合は、事情が違ってきます。いつ死ぬか分からないからです。これらの病気は、緩和治療ができません。この場合、インフォームドコンセントが望ましいと思います。痛みや苦しみの緩和ができず死に近づいてきている場合、命を終わらせる権利を事前に持てるようにしておくことです。医者と患者、そしてその家族が合意の上でその権利を行使することができるように、事前に決めておくことが必要だと思います。この場合も単なる延命治療で苦痛の道を選択するのではなく、一定の状況になった場合には、命を終わらせることを決めておくべきだと思います。
死光り(しにびかり)という言葉が、江戸時代にあったそうです。死に際が光る、つまり立派な死に際を意味する言葉です。ほかに、死に花を咲かすという言葉もあります。立派な死に方をして、後に名誉を残すという意味です。

死に花を もっと咲かせる 仏哉     一茶      (明日につづく)

2008年12月22日月曜日

25.日本人の死生観ーその4

数ヶ月前に、「最高の人生の見つけ方」というアメリカの映画を見ました。逃れることのできない死を受け入れて、残りの数ヶ月をいかに有意義に生きるかというテーマの映画でした。人間にとって死は避けられないのだから、生きている間にやっておきたいことはやっておこう、くよくよ考えず残りの時間を意味のあるものにしよう、という提案です。
全く同感で、死ぬと決まればくよくよ考えないことです。体はじたばたしても、精神はじたばたしないことです。無駄な延命治療は拒否し、寿命が尽きるまでやりたいことをやるだけです。それが、命の質を重視するということではないでしょうか。私は、その覚悟はできています。
プロ野球の野村監督が、何かの本に書いていました。じたばた動かず、ただじっとしている方が長生きするそうです。動物でいえば、ワニや亀や象がそれにあたります。確かに監督がいわれるように人間も、じたばたせずじっ~と構えている人の方が、長生きするように思います。貧乏暇なし、金持ち我関せずといいます。じっ~としている人に、勝ち組は多いかもしれません。でも私は、ただ長生きをするためだけに何もしない人生は、つまらないと思います。このような人は終末になっても、何らかの医療で生き延びようとするでしょう。このような人にとっては、長生き自体が目的であって、生き方の内容は二の次だからです。
これは、あまりにも利己的ではないかと思うのです。税金で膨大な医療費を使わせて、ただ長生きだけが目的だというのでは、あまりにも寂しすぎます。いや、理不尽だと思います。長生きだけが、人生の目的でないことは明らかです。長生きだけが目的で、人間としてワクワクするような感動や生きがいを軽視するのは、まことに愚かとしかいいようがありません。人生の価値は量(長さ)ではなくて、質(生き様)です。
自然との共生の中で育まれてきた日本人の死生観は、もう取り戻せません。しかし、「自然とともに」という観念はまだ生きています。だから、自然に逆らった生き方はしないと決めることが大事ではないでしょうか。つまり、無理して長生きしないということです。(明後日につづく)

2008年12月19日金曜日

24.日本人の死生観ーその3

昨日は思い出すままに、私が幼かった頃の状況を羅列してみました。たった50年ほどの間に、町は様変わりしてしまいました。何百万年と続いた自然と人間との一体感が、この半世紀の間に喪失してしまったのです。日本人の死生観の根幹をなす自然が、消え去ろうとしています。このことは、日本人に対して、死生観を変更するよう求めているということを意味しているのはないでしょうか。今までパートナーだった自然が、なくなろうとしているのです。自然というパートナーがいない中で、新たに日本人の死生観を構築する必要があると思うのです。自然とともに生き、自然の中で静かに死んでいくという死生観をもてなくなった以上、当然のことです。では、これからの日本人が持つべき死生観とは、どんなものなのでしょうか。
私は、命の質を重視することではないかと思っております。言い換えれば、人生の長さよりも生き方の内容を重視するべきだということです。終末期を迎え、ただ生きているだけという状態に、何の意味があるのでしょうか。医学的な意味はあるでしょうが、人生で80年で死ぬところを81年に延ばしてもらうことに、どんな価値が見出せるのでしょう。高額な医療費(もちろん国民負担の健康保険料)を使って、1年生き延ばさせて何ができるというのでしょうか。(月曜日につづく)

2008年12月18日木曜日

23.日本人の死生観ーその2

私が高校時代まで住んでいた、西宮のことを振り返ってみたいと思います。つまり、半世紀ほど前の地方都市の状況です。
(動物の場合)
ツバメが一杯いました。雨が降りそうになると、えさの蚊などの虫を食べるために低く飛んでいるのをよく見かけました。夕方になると、蝙蝠(こうもり)が無数に飛び回っていました。近くの小さい川には、フナ・どじょう・めだかなどが一杯いました。夏が近づくと、蛍が川原の草の上でたくさん光っていました。秋が近づくと赤とんぼの群れが、夕日の中で空中停止しているのが見えました。
(女性の場合)
年寄りの女性は、道で前から男が近づいてくると脇によけました。男尊女卑の時代に育ったせいで、男性が怖くて脇によけていたのか、単に謙虚だったのかは分かりません。
今はそんな女性は一人もおりません。逆に、男性を押しのけるように歩いている女性が増えています。
厚化粧している女は、クロウトとすぐに分かりました。普通の女性は化粧をしないか、しても薄化粧でした。今の若い女の子の厚化粧を、当時の目で見ていると全員がクロウトということになります。ともかくあの当時の女性(特に年寄)は、謙虚な素人ばかりでした。
(自然環境の場合)
年中、星がたくさん見えました。
今は汚くなっている香枦園浜では、泳いでいると底の砂地にテンコチやキスの姿が見えました。鳴尾浜から芦屋浜まで、ほぼ全域砂浜でした。(今津港と西宮港は除く) 阪神電車の駅でいうと、10駅分です。
冬になると道路に氷が張りました。でこぼこの土の道が多く、水溜りがよく凍っていました。
小学校へ登校すると、頭から湯気を出している同級生の男の子がいました。帽子をかぶって、遠くの方から走って登校してきたので、寒い教室で帽子を取ると頭から湯気が立ったのです。
阪神電車西宮駅近辺では、柳の木が多かったのを覚えています。柳の木は色街に、桃の木と一緒によく植えられました。ここから花柳界という言葉が生まれたそうです。(本題と関係のない話になってしまいました)
朝顔の花を方々で見かけた記憶があります。何のために植えられていたのか、いまだによく分かりませんが。(明日につづく)

2008年12月17日水曜日

22.日本人の死生観ーその1

自然との一体感の中で生きてきた日本人は、人間の生命も自然の一部ととらえてきました。生命が死に向かっていくのが自然であり、その死を当たり前に受け入れてきたのです。昔は臨終の時が、海の引き潮と重なるといわれました。人間の死とは、自然現象だというとらえかたです。
小津安二郎監督の、「東京物語」の中で、東山千栄子は67歳でこのような臨終を迎えたのではないでしょうか。
ひるがえって現代社会は、自然と接する機会がほとんどありません。都会に住んでいればなおさらです。残り少ない自然は、徐々に破壊されつつあります。われわれは季節感という感覚を喪失しつつあるのです。
その原因は何なのでしょうか。私は科学の進歩が、人間を自然から遠ざける結果を招かせたのではないかと考えています。たしかに、科学は人間に大きな恩恵をもたらしました。食べ物の製法が進歩した結果、一年中世界の食べ物を食べることが可能になりました。医学の進歩によって、今までなら間違いなく死んでいたような病気が、治るようになりました。まことにありがたい時代です。
しかし、ありがたいものを得た半面、失ったものもあります。日本人の場合、それは自然との一体感です。死生観といってもいいでしょう。自然を破壊しながら便利な生活を得たけれども、一方で自然との一体感という日本人にとってかけがえのないものを喪失しつつあるのです。(明日につづく)

2008年12月16日火曜日

21.延命治療の拒否

新聞に医師の話として、こんなことが載っていました。要約します。
「本人が人工呼吸器の装着や心肺蘇生などを望まず、痛みを和らげる点滴や酸素吸入のみを希望した場合、状態が悪化してから1~2週間で安らかな顔のままで亡くなる。静脈栄養の管をつけたり、人工呼吸器をつけたりしていると延命にはなるが、顔がむくんでしまう。また点滴による栄養や水の過剰投与で、痰(たん)が多くなり喉に詰まって苦しむ。体はむくみ、肺は水浸しになる。栄養補給は点滴によらず、口からだけで行うのが望ましい。要するに昔と同じように、自分で食べられなくなったら栄養失調で死ぬのが自然である。緩やかな脱水状態で、枯れるように死ぬのが理想だ」

「旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る」      芭蕉
死の前日に芭蕉は、「吾(われ)生死も明暮にせまりぬとおぼゆれば、もとより水宿雲棲の身の、この薬かの薬とて、あさましうあがきはつべきにもあらず」と、延命治療を拒否し静かに死んだそうです。いさぎいいではありませんか。人間としての品性が感じられます。51歳でした。(明日につづく)

2008年12月15日月曜日

20.延命治療について

慶應義塾大学の近藤誠先生によると、老衰という死に方が減っているようです。1918年には人口10万人あたり178人が老衰で死んでいましたが、2001年には10万人あたりたったの25人です。総人口に占める65歳以上の割合は1918年が5%で、2001年が17%です。
老齢人口が激増しているのに、老衰による死は反対に激減しているわけです。その原因は、死因がガンだと診断される事例が増えたからだそうです。ガン・心臓病・脳卒中の三大死因のうち、心臓病と脳卒中は発作があるので昔も診断が容易でした。ところが、昔はガンが死因でも解剖したりしなかったので、老衰による死とされたようです。ガンは治療せずにおくと、老衰のように楽に死ねることが多いといいます。ガンにかかると苦しむという印象があるのは、術後の後遺症や薬の副作用と混同しているからとのこと。手術で病巣を切除すると、延命効果がある場合が多いが、転移の危険性があります。そして、転移のために苦痛が生じることになる。
だから、老衰のような死に方を理想とするなら、ガンを無理やり治療しないほうがいい場合もあると、おっしゃっています。
手術して延命し苦痛と戦うのか、ガンのまま枯れるように老衰で死ぬのか、どちらが幸せなのかと問いかけておられます。(明日につづく)

2008年12月12日金曜日

19.医学の恩恵

人間は古来、歯・目・生殖機能が衰えてくると老化現象だといわれました。いずれも手の施しようがなかったからです。
歯については歯医者はおらず、西洋では散髪屋などが、「抜き」専門でやっていたようです。抜ければそのままの状態で、放置せざるを得なかったのです。よく動物は、歯が抜けてなくなる時が、死ぬ時だといわれます。人間も昔は動物と同じでした。しかし歯学の発達によって、歯が抜けたあとも入れ歯で食物を摂取できるようになりました。歯科技術の発達が、人間の長生きの原因の一つなのです。
私の祖父は、総入歯(そういれば)でした。上下の入歯を食事のたびに、入れたり出したり苦労していたのを思い出します。口腔にくっつけるタイプのものでしたので、唾液の分泌は不十分で、食事はおいしくなかったと思います。それでも、84歳まで長生きしました。
もし、この世から歯医者がいなくなったら、人の寿命は間違いなく縮まることでしょう。ともかく、歯だけでなくすべての医療分野において、知識や技術が発達しました。
その恩恵を最もこうむっているのが、年寄なのです。病院を集会所と勘違いしたり、人間ドックなどの検査が趣味という年寄が多すぎます。病院に治療ではなく、安らぎとか安心を求めにいっているのでしょうか。人間としては、自分で自分を守るという姿勢が大事だと思います。自分一人の力では治りそうもないと感じた時に、はじめて医者にかかるべきです。風邪がいい例です。風邪をひいていろいろ試したが、治りそうもないと感じた時に医者にいくのです。よく早期発見で助かったという話を聞きますが、検査で発見するのではなく、自分自身の感性で発見できるように心を磨く方が先決です。検査でなくては発見できない病気があることは、理解できます。しかし、何か変だとか痛いとか感じたら、すぐに病院に行くというのは、最近できた習慣です。人類の長い歴史から見れば、たったこの数十年にできた習慣に過ぎません。昔の人はそんな風には行動しませんでした。風邪気味だと思ったら早く寝るとか、玉子酒を飲んで布団を頭からかぶって汗を大量にかくとか、ともかく自助努力で治そうとしました。これが当たり前のことでした。
現代人は、医者に頼りすぎです。特に老人医療の無料化という最悪の制度ができてから、この傾向は増大しています。自分の感性や自助努力ということを、もう一度考え直してもらいたいものです。(月曜日につづく)

2008年12月11日木曜日

18.医療費の膨張

年寄が一番恐れていること、あるいは年寄になったときに最も恐ろしいと思うことは、「ボケて動けなくなって、長生きすること」ではないでしょうか。そのために、年寄は必要以上に病院に行きます。
長生きをすればするほど、病気になる可能性は増大します。去年の総医療費のうち、70歳以上の年寄の割合は43%だそうです。団塊の世代が70歳代に突入するのに、10年かかりますが、そうなるとこの数字が50%を超えるのは間違いありません。総医療費の70%以上が、年寄に使われる時代が来るのは、そんなに遠い日ではないでしょう。
1973年から実施した、老人医療の無料化は暴挙といっていいでしょう。経済成長期に、官僚が無責任に作った制度です。最近では、少し反省して有料化に向けて、知恵を絞っているようです。
ともかく、老人医療の無料化制度が残した病院通いという後遺症は、現在でも色濃く残っているのです。(明日につづく)

2008年12月10日水曜日

17.年寄の心得ー間伐

間伐とは混みあった森林から、曲がったり弱ったりしている杉や桧(ひのき)などの針葉樹を抜き取り、森林の中を明るく保ち、木を真直ぐに育てるために必要な作業です。
間伐を行わなかった森林では、樹木の成長が遅く、根を張ることも難しくなります。また、森林の中が暗く太陽光線が届かないため、下生えも生えないので水源滋養力、土壌保全能力が低くなります。つまり間伐は、土砂災害防止のために、重要な作業なのです。先日の東北の地震でも、土砂崩れによる人身事故がありました。そして間伐は、森林を育てるという意味があります。森林が育てば、CO2が削減され、地球環境保持に貢献できるのです。
50年前に44万人いた林業従業者は、現在5万人にまで減っているそうです。間伐が行き届かず、CO2を削減すべき環境は悪化しています。間伐を行わないことにより、細く弱い木が樹立している状態を、「線香林」、「もやし林」と呼ぶそうです。低開発国の恵まれない極貧の子供たちを、思い浮かべてしまいました。
間伐を人間に結びつけるのは、不謹慎と思われるかもしれません。しかし、「楢山節考」に書かれているように、限られた土地で限られた食糧しかなければ、全部に行き渡りません。一部に行き渡らない場合、行き渡らないところは餓死してしまうけれども、残りは助かります。最悪なのは全体に行き渡らなくて、全体が徐々に死んでしまうことです。
曲がったり弱ったりしている木を、間伐することによって、森林全体を生かすことが最も重要なのです。ともかく間伐という概念を、これからの年寄は、頭の隅においておく必要があるのではないでしょうか。(明日につづく)

2008年12月9日火曜日

16.人間とは元来寂しい存在

数ヶ月前の新聞に、フランスのサルコジ大統領夫人カーラさんの談話が載っていました。日本の洞爺湖サミットに夫婦で参加しないのは、日本が嫌いなのかという質問に答えたものです。
彼女は小津安二郎監督の、「東京物語」を見たというのです。その映画で、「日本人は、人間の寂しさを感じる繊細な心を持っていることが分かった。自分は北イタリア人なのでよく分かる。だから、日本が嫌いではない」というのです。
「東京物語」は1953年の映画です。何と偶然にも私は、この記事を読んだ2日前に、「東京物語」を市主催の映画会で見たのです。物語は笠智衆と東山千栄子の老夫婦(70歳と67歳)が、田舎(尾道)から東京にいる長男や長女に会いに行くところから始まります。夫婦愛、親子の感情、息子の嫁・娘の旦那との関係、孫のこと、戦争で死んだ次男の嫁(原節子)の情愛、帰途の病気、67歳で眠るように死んでゆく母・・・・・一家を通じて人生の1コマ1コマを、まるで記録映画のように淡々と捉えた作品です。人間のやさしさと寂しさを描写した映画といえるでしょう。
それをサルコジ夫人は、「人間の寂しさを感じる繊細な心」と表現しました。なかなかの感覚を持っている人のようです。
ともかく、この映画の設定時期は、昭和27~28年です。症状から見て、たぶん脳梗塞だと思うのですが、家に帰った東山千栄子は意識がないまま、数日後に他界します。医者も余計なことはしません。あの時代、何もできなかったのかもしれませんが、自然に死んでゆくのを医者はただ見ているだけです。葬式が終わると、家族はそれぞれ帰ってゆきます。あとに一人だけ、笠智衆が取り残されます。70歳のおじいさんが、一人で座っているところで物語は終わります。淡々とした流れの中で、仏教でいう生老病死を映し出す場面の数々、最近これだけ記憶に残った映画はありません。半世紀以上も前の作品だというのに、現在でも新鮮さを失っておりません。
人間とは本来、寂しい存在だということを再認識させられました。また、寂しい存在でいいのだとも思いました。寂しく死んでゆくのが、自然なのです。
意識がなくなる少し前に、東山千栄子が笠智衆にいいます。
「私たちは世間の人よりも、ほんの少しだけ幸せだったのではないでしょうか」

2008年12月8日月曜日

15.嫌老思想あれやこれ

先週末は、若くして亡くなった天才たちを取り上げ、礼賛(らいさん)しました。今日は年寄のこきおろしの番です。
<アリストテレス>
老醜をさらすとか、生き恥という言葉があります。アリストテレスもこんなことを言っています。
「恥は若者にとって名誉であり、老人にとって屈辱である」
ニコマコス倫理学の中の、彼の考えは以下の通りです。
「肉体と魂は結合している。老年の幸福とは、肉体が健康であることである。したがって、肉体の老化は人格の退行を意味する。老人はケチでエゴイストで、利害を超えた友情を知らず、倦怠のため愛情も失せており、性格が気難しい」
なんともすごいですね。アリストテレスは、嫌老思想の代表格です。
<孔子>
「長じて述べらるることなく、老いて死せざる、是を賊と為す」
これ、孔子の言葉です。歳をとっても評価されることなく、なかなか死なない。これはよくないことだといっているのです。
儒教は敬老観念の教えといわれるが、老人自身の厳しい自己抑制が前提となっているのです。死後のことなど分からないとする孔子にとって、老年期とは死ぬ前の大事な時期であり、どう生きたかが問われる時期でもあったのです。私には、尊敬される老人以外は、早く死になさいといっているように聞こえます。
<ラスコーリニコフ>
ドストエフスキーの、「罪と罰」の主人公です。
「有為な青年のためには、無益な老人の生命と財産を奪っても構わない」という命題を追いながら、主人公の心の葛藤を描いた小説です。人間を社会的存在価値だけで規定してしまうと、老人殺しを否定できなくなります。アリストテレスや孔子は、こちらの派に属しているようですね。何故老人殺しをしてはいけないのか、何故老人を大事にしなければならないのかということについては、ドストエフスキーは直接触れていません。主人公が自首し、シベリヤ送りになるまでの過程で、読者にその課題を考えさせようとしているようです。結論から言えば、ドストエフスキーは老人擁護派になるかもしれません。しかし、老人の存在価値を命題にしたこと自体、その根深さを認識していたことになります。
<西鶴>
「人間五十年の穴(きはま)り それさえ我には余りたるに ましてや浮世の月見 過ごしにけり 末二年」
西鶴が、52歳で亡くなった時の句です。人間は50年で死ぬのがちょうどいい。それなのに何としたことか、自分は2年も余計に生きてしまった。まことに、いさぎいい死に方だと思います。
<兼好法師>
「住み果てぬ世に、醜き姿を待ちえて何かはせん。命長ければ辱(はじ)多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、めやすかるべけれ」
徒然草の一節です。寿命の短かった時代ですから、四十足らずで死ぬのがいい、見苦しくない生き方をせよと兼好法師は言っているのです。老人のことを醜き姿といっているし、長生きすると恥が多いといっていますから、やはり嫌老思想といえるでしょう。
そのご本人は、当時としては異例の長生きといえる、七十歳近くまで生きたそうです。言行不一致ですね。
<銀嶺の果て>
村上春樹の小説の題名です。
年寄が生きていること自体が罪として、国が老人処刑制度を作ります。一つの地域で老人同士が殺しあって、残った一人だけが生き残れるという制度を国が作ったという奇想天外な内容です。
一人の老社長が、国の係官に食ってかかります。「わしは金をたくさん稼いでいるし、誰にも迷惑をかけていない。だから自分は免除して欲しい!」
ところが係官はこう言うのです。「例外はありません。老人が老人であることそのものが罪なのです」
まことに厳しい内容です。老人問題のタブーを打ち破ったというよりも、老人問題の核心に迫った村上春樹ワールドといっていいでしょう。
以上、老人問題の本質とは何かを、歴史上の人物などに学んでみました。無条件の長生き礼賛主義者は、知らないので取り上げようがありません。人間は、長生きするのがいい、長生きはめでたいとは必ずしもいえないようです。そのことが、老人問題・長寿社会を考える上で、非常に重要なポイントだと私は考えます。

2008年12月5日金曜日

14.若くして亡くなった天才たち

生活が便利になったからといって、現代人は皆、幸せでしょうか。ストレス社会となり、かえって不幸な人が増加しているのではないかと思うのです。生活が不便だった短命の時代の方が、感激や喜びが凝縮されていたのです。不便で短い人生ではあるが、充実した人生だったのです。美人薄命などという言葉も、そんな時代背景の下に生まれたのではないでしょうか。また、若くして亡くなった天才たちも、沢山いました。いわゆる、夭折した天才を挙げてみます。
パスカル        (仏、数学者、哲学者)        39歳
ランボー         (仏、詩人)               37歳
石川啄木        (詩人)                  27歳
樋口一葉        (小説家、詩人)           24歳
正岡子規        (詩人、歌人)             35歳
宮沢賢治         (童話作家)              37歳
モジリアーニ       (伊、画家)               36歳
ガーシュイン       (米、作曲家)              38歳
ショパン          (ポーランド、作曲家)        39歳
滝廉太郎         (作曲家)                23歳
メンデルスゾーン    (独、作曲家)             38歳
モーツアルト       (墺、作曲家)             35歳
全員39歳以下です。
今の日本人の平均寿命の、半分以下で亡くなっています。しかし、その輝かしい業績は歴史に燦然と残っています。彼らの人生は、中味の詰まった人生だったといえるのではないでしょうか。(月曜日につづく)

2008年12月4日木曜日

13.大昔の釣り

昔の釣りは釣れなくて、大変だったろうと思います。石の釣針を使っていた時代はともかく、銅や鉄で作った針でも、現在のような精巧で強靭なものとは、比べものにならないような代物だったでしょう。糸もナイロンなどなかった時代ですから、糸を撚り合わせたひものようなものを使っていたものと思われます。棹(さお)はカーボン製ではなく、竹でした。リールももちろんありません。
私も釣りは好きですが、現在のように恵まれた道具を使った釣りでも、大きな魚が釣れた時は本当にうれしいものです。現在に比べて、道具に恵まれなかった時代は、魚がなかなか釣れなかったと思います。だから釣れた時の喜びは、現在と比べようもないほど、大きかったのではないかと想像します。感動の大きさが違うと思うのです。
道具に恵まれず、あまり釣れないけれど、そのかわり釣れた時の感激は、至上のものだったに違いありません。中国のことわざで、あらゆる道楽の中で釣りに勝るものはない、という話を聞いたことがあります。それほど魅力的だったのでしょう。
昔は、「釣る」という行為の中に、感激や喜びが今以上に凝縮されていたのではないでしょうか。
人生についても、釣りと同様のことがいえるのではないかと思うのです。衣・食・住すべての面において、昔と現在とでは比較にならないほど便利になりました。
しかし、人生の感激や喜びという点においては、優劣はつけられないと思います。かえって昔の方が、感激や喜びが凝縮されていて、それを大きく感じたのではないでしょうか。(明日につづく)

2008年12月3日水曜日

12.変な教授

植島啓司という大学教授がいます。宗教人類学者となっていますが、ギャンブル学者といった方が適切でしょう。競馬・麻雀・カジノ・・・・・。何でも来いで、世界中をギャンブルのために飛び歩いている人です。その彼の著書、「賭ける魂」を読みました。その中に寿命に関する興味深い部分があるので、紹介させていただきます。

新聞記者、「何故競馬が好きになったんですか?」
植島、「それは馬という生き物のせいでしょうね」
新聞記者、「というと・・・・」
植島、「馬の寿命は短いし、競走生命はさらに極端に短い。ところが、短いからこそ生命の連続性に敏感になる。この馬の母の父はテスコボーイとかね」
新聞記者、「なるほど。寿命というのはつい長ければ長いほどいいと考えがちですが、長いとかえって生命の連続性が見えにくくなってしまうということですね。短いからこそ、生命がひと繫がりになっているのが見える」
植島、「ええ、人間はいまだいたい80年近く生きますね。つまり、それだと中途半端に長すぎるんです。自分が60歳になってようやく孫が誕生する。その孫が一人前になる姿はほぼ見られない。しかも生命が中途半端に長いから、ついそれで完成したものとみなしがちで、生命が連続しているという実感が持ちにくい」
新聞記者、「なるほど」
本文、「もちろん、寿命が長くなるのはめでたいことではあるけれど、なんだか寿命が50歳程度の頃のほうが、人間が人間らしく生きていたような気がしないでもない。『潔さ』とか、『いき』とか、『いなせ』とか、生き方に一本シンが通っていたように思われる。感情移入もしやすい。それがいまや寿命も80歳を超えて、次第に100歳に近づきつつある。そうなると、どうも人生がのっぺりしたものに見えてくる。しかも、その3分の1は病気や死との闘いである」

植島教授が言われるように、寿命が50歳程度のころのほうが、人間が人間らしく生きていたというのは当たっています。その通り! 昔の人の生き方の方が、シャンとしていました。(明日につづく)
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2008年12月2日火曜日

11.辻井喬=堤清二

いま読売新聞に毎週土曜日、「叙情と闘争」という連載があります。作家の辻井喬(西友の堤清二元社長)の回顧録です。過日、このような文章があったので、抜粋して引用させていただきます。
「1960年代から70年代にかけて、経済界の主流を形成していた経営者の多くは、敗戦で先輩が公職追放などの措置にあい、第一線を退いたあと四十歳代で急に経営者の座についた人たちだった。井深大、岩佐凱実(よしざね)、藤井丙午、。(中略) 彼らはいずれも日本が連合軍に無条件降伏したとき、三十代後半から四十代前半の年齢であり、大きな支店の支店長かエリートコースの課長あるいは部長というポストにいた。先輩たちが公職追放などで、企業を離れなければならなくなった時、彼らはまだ充分に若く、経営革新に乗り出すエネルギーを持っていた。僕は敗戦後の日本経済の躍進の大きな要因のひとつに、経済外的な条件の変化がもたらしたものであるが、指導層が一斉に若返ったことがあると思う。この、『一斉に』というところが実に大切なのだ。というのは、個々の企業が若返っても、社会のシステムが若返っていないと、若さが貫徹しないからである・・・・・」
戦後の日本経済の急発展の原因が、指導層の若返りにあったとする見解です。確かに戦後日本の経済発展の原因は、日本人の勤勉さや優秀性という意見が大勢を占めます。ところが、辻井氏は若さにあったといっているのです。敗戦という外的な原因ではあったが、若返りが驚異的な経済発展につながったという意見は、傾聴に値すると思います。
この文章の少しあとの部分に、次のような話が出てきます。電力の鬼と呼ばれた松永安左ェ門と、辻井氏が面談していた時の寓話です。
「『ちょっと失礼』といって座をはずして間もなく、松永の破れ鐘(われがね)のような怒鳴り声が聞こえてきた。『君は名誉でわしを釣る気できたのか。そんな卑しい根性の大学には一切寄付はせん。失敬な。帰れ、帰りなさい』と言っているのだ。どうやらどこかの大学の理事長か専務理事が寄付を頼みにきて、つい、これに応募してくれると名誉博士に、というようなことをいったのらしい(原文どおり)。 (中略)やがて戻ってきた彼は、『老人になって醜いのは物欲と名誉欲だ。見下げ果てた奴だ』と、まだ怒っていた」
この部分で感心したのは、老人になって醜いのは物欲と名誉欲だといった松永の名言です。確かに欲望丸出しの年寄ほど、醜い存在はありません。

2008年12月1日月曜日

10.短命の時代・・・・松王丸伝説

松王丸伝説というのがあります。平清盛が宋との貿易拠点として、今の神戸に湊や人工島を作ろうとしました。経ヶ島(きょうがしま)築造の際、二度にわたって暴風雨にあい、破壊されました。陰陽博士に占わせたところ、海の竜神の怒りを鎮めるために30人の人柱(ひとばしら)を建てねばならないとのこと。清盛は生田の森の関所で、旅人などを30人捕まえさせ、牢屋に入れました。これを見て悲しんだのが、清盛の小姓、松王丸17歳でした。30人の人たちの代わりに、自分を人柱に建てて欲しいと清盛に申し出、受け入れられたのです。千人の僧侶が読経する中、経を書いた石とともに心静かに入水したそうです。そして完成した島は、経ヶ島と命名されました。松王丸は清盛が眼に入れても痛くないほど、かわいがっていた小姓でした。また、松王丸の父親は讃岐の城主、田井民部で、松王丸は嫡男でした。清盛も父親も、松王丸の死を認めたのです。
平家物語などには書かれてないので、真相はよく分かりません。話として、受け継がれているだけなのです。真偽の程はともかく、17歳という若さの死を認めてしまうというのは、どういう感覚なのでしょうか。
私は命の短かった時代だからこその、感覚ではなかったかと考えています。人身御供(ひとみごくう)という命の使われ方も、あの時代の中では意義のあるものと考えたのかもしれません。あるいは長くない命の使われ方として、妥当なものと考えたのかもしれません。ともかく親も認めた、「死という命の使われ方」は、命が短かった時代特有の感覚だと思います。
この間、松王丸が入水したと思われるところを見てきました。神戸港の港めぐりの観覧船に乗ったのです。川崎汽船と三菱重工の造船所の間に、兵庫埠頭があります。たぶんここが、あの経ヶ島のあったところではないかと思いました。船内の案内放送では、神戸港の地理的な特異性に触れていました。東京港、名古屋港、大阪港はじめニューヨーク港、ハンブルグ港など世界のほとんどの港は、大きい川の河口にできているが、神戸港は河口ではない。これは平清盛が、西風を避けるために半島の東側に港を作ったからだと、説明していました。これだけの説明では不十分で、北風や東風を避け、荒波を和らげるために、人工島の経ヶ島を作ったことが抜けています。さらに経ヶ島を作るために、松王丸が命を捧げたことまで、触れて欲しかったと思いました。
命の短かった時代に、このような若者がいたということを、いつまでも伝え残したいものです。(明日につづく)