2008年12月3日水曜日

12.変な教授

植島啓司という大学教授がいます。宗教人類学者となっていますが、ギャンブル学者といった方が適切でしょう。競馬・麻雀・カジノ・・・・・。何でも来いで、世界中をギャンブルのために飛び歩いている人です。その彼の著書、「賭ける魂」を読みました。その中に寿命に関する興味深い部分があるので、紹介させていただきます。

新聞記者、「何故競馬が好きになったんですか?」
植島、「それは馬という生き物のせいでしょうね」
新聞記者、「というと・・・・」
植島、「馬の寿命は短いし、競走生命はさらに極端に短い。ところが、短いからこそ生命の連続性に敏感になる。この馬の母の父はテスコボーイとかね」
新聞記者、「なるほど。寿命というのはつい長ければ長いほどいいと考えがちですが、長いとかえって生命の連続性が見えにくくなってしまうということですね。短いからこそ、生命がひと繫がりになっているのが見える」
植島、「ええ、人間はいまだいたい80年近く生きますね。つまり、それだと中途半端に長すぎるんです。自分が60歳になってようやく孫が誕生する。その孫が一人前になる姿はほぼ見られない。しかも生命が中途半端に長いから、ついそれで完成したものとみなしがちで、生命が連続しているという実感が持ちにくい」
新聞記者、「なるほど」
本文、「もちろん、寿命が長くなるのはめでたいことではあるけれど、なんだか寿命が50歳程度の頃のほうが、人間が人間らしく生きていたような気がしないでもない。『潔さ』とか、『いき』とか、『いなせ』とか、生き方に一本シンが通っていたように思われる。感情移入もしやすい。それがいまや寿命も80歳を超えて、次第に100歳に近づきつつある。そうなると、どうも人生がのっぺりしたものに見えてくる。しかも、その3分の1は病気や死との闘いである」

植島教授が言われるように、寿命が50歳程度のころのほうが、人間が人間らしく生きていたというのは当たっています。その通り! 昔の人の生き方の方が、シャンとしていました。(明日につづく)
asu

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